代表者自己紹介

仕事のことではなく、私・木村卓哉個人の紹介をします!
とは言っても、facebookがとっても便利なのでそちらに情報を集約しています(facebookの木村卓哉個人ページはこちら)。経歴などの分かりやすい(表現しやすい)情報はぜひそちらをご覧ください。同じことを複数個所で書くと「内容のずれ」が発生してご覧になる方はもちろんのこと自分自身もわからなくなってくるので・・・(苦笑)、ということでご理解ください。

ここでは、私の想いや考え方などを綴ります。

<大町市にたどりつくまでのできごと>
北海道の浦河町(母の実家の隣町)の病院で生まれ、小学校入学直前までは釧路市で育ちました。母はずっと北海道に住み続けると思っていたようですが、このタイミングで父の大阪転勤があり、大阪府の泉大津市というところにある父の会社の社宅に移りました。父は高卒でその会社に入社、転勤がない職種だったようですが(たぶん)、何かのプロジェクト?、いや選抜?に志願した関係で大阪に転勤だったようです。今思えば、私にあちことに行くことへの耐性が身についた最初の出来事だと思います。さらに教訓めいたことをいえば、私達家族は極寒の釧路市から3月に引越したのですが、社宅の部屋に荷物を入れる日が寒い日で引越業者が来るまでの数時間、寒さに凍えながら待ちました・・・。もちろん、釧路よりははるかに暖かかったはずですが逆にそのせいで油断して、主だった防寒具を引越業者に預けていたため気温の割にはものすごい薄着で行動していたために寒さに凍えることになりました。幼心に残っているのは、「備えがあればなんてことないのに、それがないだけで過酷な思いをする」「数字(天気予報の気温予想)だけでは、本当のこと(寒いか暖かいか)はわからない」という教訓です。

さて、「市」とは言えども、地理的にいえば東端の方で北海道の中でもさらに端っこの部類に入る釧路市から大阪府に移った私達家族は、「うちらは田舎者。ここは田んぼに囲まれた社宅だけど「大阪」なんだから都会」というイメージでいました。釧路にいることはテレビの全国版で言っていることのほとんどが季節外れだったり遥かな方遠いところのことだったりで、(同じ日本の出来事なのに)自分たちには関係あると思ったことがあんまりなかったのに、テレビ番組で「桜が咲きそうです」といえばだいたいそれくらいの時期には咲くし(釧路だと5月中旬くらい?)、「全国的に暑いです」と言われれば大阪も暑い(釧路は涼しくて、いや寒くて?、私達家族はエアコンはもちろん扇風機すら持ってなかった)。電車等の公共交通機関を駆使すればクルマがなくても過ごせる(クルマがないと行けない場所がいっぱいあった)。家の間のせまーい路地みたいなところがたくさんある(そういうところで遊んだ記憶は大阪のときのものばかり)。瓦屋根の家がある(北海道には無いのが基本)。と、あげればキリがないくらい見たことがないものや今までと違うもの・ことがたくさんありました。2年間という短い期間しか大阪にいませんでしたが、釧路や父母の実家や親戚の家の周辺しか知らなかった私にとっては視野を広げる貴重な機会になりました。そしてもっとも大きな学びは「見たことがない/行ったことがないところには、自分の常識とは違うことがたくさんある。」ということを知ったことです。これはこの後の人生で大きな糧となりましたが、小学2年生で大阪を離れたときの自分にはそんなことは知る由もなく、メールも携帯電話もない時代、ただただ友達と離れることが悲しかったことを覚えています。

大阪弁をベラベラしゃべっていた私が釧路に戻り、小学3年生の新学期から釧路時代に通っていた幼稚園のすぐ近くにある小学校に転校しました。僕や弟が寂しい想いをしないように幼稚園時代の同級生(という言い方で合ってますか?)が通っているであろう小学校に入れるように、親が会社に掛け合ってくれて大阪転勤前の社宅の隣りの社宅に入れるようにしてくれました。が、しかし知っている人がほとんどいなくて・・・、ショックでした。なんでいなかったのかわからないですが、やっぱり2年経つと環境が変わるということなのか、他の理由なのか・・・、寂しい想いをしなくていいと思い込んでいただけにショックが大きかったです。「世の中に確実なことなんてないんだな」と思ったものです。

そんなショックがありつつもなんとか慣れてきたところで、また転勤の話が持ち上がります。今度は釧路から札幌へ。大人になってから思えば、父の仕事が順調だった証拠だと思うのですが子供だった僕にはそんなことはわかりません。また友達とお別れか・・・、という想いしかなく、かなり泣いたような気がします。札幌に移ってからも毎日泣いていたような(笑)。幼稚園のときの友達と会えず、新しくできた友達とは別れ、自分には「幼馴染」を作ることができない、友達がいなくても楽しんでいくしかないんだ!と今思えばかなり偏った考え方を持つようになったのがこの時期です。前向きに考えると、どこにいってもなんとかやっていける基礎が出来上がってきた時期とも言えます。

そんな自分の変化?の中で、私達家族はもう転勤はないだろうから札幌市内で家を建てるということになり、また引越しをしました。ただ、今回は札幌の社宅のご近所さんが引越した先の近くに家を構える(いい場所だよ、と紹介していただいたのかな)ということで少なくとも知っている人がいる場所・しかも同じ札幌市内ということでこれまでの中では一番気楽な引越しでした。家を建てたんだからこれで引越しすることはない!という安心感に加えて、自分の部屋を用意してもらうという特典付き(笑)。ここが現在の実家で、リビングからは山が見え(直線距離で2kmくらいか?)、ちょっと散歩をすると(3分くらい?)海が遠くに見えるという絶好のロケーションです。なんでここに帰らずに、大町市に引越して来たんだ?というのは後で説明します(笑)。

しかし世の中、そう甘いものではないということで、家を建ててさほど日が経たないうちから父は東京へ長期出張、延長につぐ延長でもう何か月行っているんだろう?と思っていたところに(定期的に実家に帰ってきていましたが)、「出張がさらに長引きそうで正式に転勤することになった」という宣告が・・・。「本当に世の中には確実なことがないんだな」と思ったものです。でもこれには、家族全員が「お父さん、単身赴任して」という反応。今思えば父がかわいそうだったなと思いますが、あの時に私達家族にはそれしか選択肢がありませんでした。母も私も転勤には疲れていたし、そういう変化に強い弟(私が友達と別れて寂しいと言っていたときも平気そうだった)も嫌そうな反応をしていたのを覚えています。

父も家族のために単身赴任を決意(とは言っても長期出張していたので物理的にはさほど変わらず?)してくれて、東京で頑張ってくれました。これは私が中学2年生くらいまで(だったかな)続くことになります。父が月1回帰ってくるのを家族全員が楽しみにしたのはいい思い出です。帰ってくると1か月で起こったことをいろいろ話したものです。そんな月1回の会話の中で(電話ではもっと頻繁に話してましたよ(笑))、1つ、今でも忘れられない会話があります(父は忘れているっぽい)。母が物音に敏感でそのたびに「強盗じゃないか・・」と怖がっていたとき、雪の時期になって雪かきが大変だったときに、父が「お父さんが家にいれない以上、この家をお父さんの代わりに守れるのはお前(つまり私)しかいない。小学生のお前にそんなことをいうのはおかしいと思うけど、お母さんは大人だけど女だ。お母さんはお前たち2人(私と弟)を守らなきゃいけないと思って、かえって神経質になっている。大人の役割はお母さんが担うけど、お父さんが担わなきゃいけないことのうち「男としてやらなきゃいけない事」はお前に頼むしかない。」と真剣に頼まれたのを今でも覚えています。

その時から、物音がしたら自分が率先して様子を観に行ったり、雪かきも言われなくても自分がやり、他にも何か力仕事があれば率先してやるようになりました。この時をきっかけに「責任」という言葉の意味を考えるようになったと思います。ましてや、東京行きを一番嫌がったのが私だったので実家での生活を続けられるよう自分も必死でした。自分としては父に言われたからという理由はあるものの、言われてみれば当たり前という想いもあったので自然体でやっていたのですが、父が中学時代に帰ってきて以来はそういうことをあまり意識しなくなり(ということで雪かきも父に任せることが多くなった(笑))、自然にやっていたことでも頼れる人がいるとやらなくなるんだなーと他人事のように思ったものです。でも小学生のときの雪かきの姿はご近所には鮮明に記憶されているみたいで、今でも母はご近所さんに「お兄ちゃん(私)は偉い。」と言われているみたいです。身体がでかくなった高校・大学時代に雪かきなんてほとんどしなくなったのに・・・と私は思うのですが、人の「印象」というのは客観的事実を超えるんだなと思わせるエピソードです。

さて中学から高校、高校から大学に進学する中で自分はどうだったかというと、さほど深く考えず「実家から通えるところがいい。今は特にやりたいこともないからつぶしが効くであろう偏差値の高い学校に行っておくか」という自分の価値観と、親の本音全開の「実家から通ってくれて、公立(大学なら国公立)に受かってくれると助かる」という意見の中で、高校は北海道立の(いちおう)進学校に進学、大学も家から一番交通費のかからない国公立大学ということで北海道大学へ。高校通学で電車を日常的に使うことに慣れ、大学進学で賑やかなところ(札幌駅から地下鉄に乗換で通う)に毎日出ていく事に慣れました(笑)。

中学3年のときにJリーグが始まって「地域密着」という言葉をよく聞くようになり、高校3年のときに札幌にJリーグチーム(正確にいうと「Jリーグ入りを目指すチーム)ができました(現:北海道コンサドーレ札幌)。中学3年のときに見たJリーグ開幕戦がめちゃくちゃ面白くて、その年の10月末の「ドーハの悲劇」ですっかりサッカーの虜になっていたのでJリーグチーム(正確にいうと「Jリーグ入りを目指すチーム」)ができるというのはものすごく大きな出来事でした。大学選びのときも、実家を出るか出ないか少し考えた時期もあったのですがチームができたことで地元に残る決断ができたという背景もあります。この頃にはすっかり「札幌が地元」という意識でいたので(人生史上、もっとも長く過ごしたのが札幌市です。)、地元を少しでも盛り上げたい、それに貢献したい、という意識をすごく強く持つことになりました。

大学入学とともにサポーター活動に没頭しました。競技場での応援活動がメインでしたが、ホーム試合ごとに自分たちの考え方を知ってもらうためのビラを配ったり(僕が編集長で、分担を仲間の中で決める)、チームの練習場に通って自分のグループ以外の方(だいたいは親と年齢が近い方ばかり)とディスカッションや打ち合わせをしたり。また、私が免許を持っていなかった関係で北海道内の試合に行くためのバスチャーターのツアーを敢行していました。これ、あくまでも「割り勘」でバスをチャーターしましょうというスタンスだったので商売ではなかったのですが、最高で観光バス6台を借りたことがあります。これは(大学生なのに)集計等が得意な人がいたのでその人にうまいこと事務処理をしてもらって(私は社会人になってからできるようになりました)、自分は当日の受付とか大声を出す仕事を頑張るという役割分担。仲間の誰かがバスガイドさん風?に、マイクで話をするのですが(トイレの案内とかだけど)いつの間にかファン?がついてくれて、申込をするときに「〇〇さんのバス希望」という方がいて・・・、少なくとも私はおもてなしをしようなんて考えておらず、したがって大したことはしていないつもりだったけども、私を指名してくれる方もいらっしゃって・・・、人との愛称とか信頼について考えさせられました。このバスツアーは、本業の旅行会社の方から「業法違反では?」と指摘を受けるくらいに盛況なツアーで(繰り返しになりますが、チャーター代を割り勘したので「業」ではなくて・・・、端数で余ってしまった分全額をチームに寄付していました)、今思えばしっかり商売にすればよかったんじゃないかと後悔しています(笑)。

さてサポーター関連でもう一つ。僕が大学2年のときに、日本代表監督として初のワールドカップ出場に導いた岡田武史さんが監督として札幌に来ました。最初は懐疑的な目で見ていたのですが(生意気ですね)、チームとしての基本的な動きを徹底するフォーメーション練習や紅白戦、週1回ある試合を軸にしたPDCAサイクルを間近に見れたことは、この時は全く気付かなかったけども社会人になって以来、仕事を進めていくときの考え方の軸になっています。誰も成し遂げられなかったワールドカップ出場を実現した日本代表監督がJ2の札幌でやったことが、基本的ことの繰り返し・徹底だったわけで、この様子を3年間、毎週見に行き続けて、「基本を大切にしないと大きなことを成し遂げることはできない」という私の信念の礎になっています。この先の人生で、岡田さんよりもすごい人がもっとすごいことを私の目の前で見せてくれたら考え方が変わるかもしれませんが、そんなことはない!と今になっても私自身が思うほどの強いインパクトでした。岡田さんは、札幌をJ2からJ1に昇格させて1年残留させています(2016年シーズン終了時点で、札幌がJ1を2年戦ったのはこの時だけ)。また、岡田さんはその後に横浜マリノスを優勝させています。日本代表を南アフリカワールドカップに導き決勝トーナメントに進出させています(2002年以外はこのときが唯一)。私は勝手に岡田さんのことを「師匠」だと思って崇めていて、現時点(2017年)では岡田さんは今治でサッカーチームの経営を通して、地域を盛り上げようとしているのにも、私の方から一方的に「ご縁」を感じています(すいません、やっぱり今でも生意気です(笑))。

私にとって偉大な師匠・岡田さんから素敵な教えを受けて大学を卒業。かなりの長文になので、社会人になってからやってきたことは省略します(実績をご参照ください)。新卒時には、メガバンクにうまく潜り込むことができました(笑)。なんで採用されたのか自分でもよくわからない・・・(笑)。「キャラ枠じゃないかなー」とよく言っていた(言われた)のですが、よくも悪くも伝統を重んじる社風(銀行なので「行風」と言いましたが)に馴染めず、いろいろ学びがあってもったいないなと思いつつも1年半で退社(これも銀行なので「退行」)。

メガバンク・しかも大きな支店(札幌支店)にいたため、大局観をもって物事を判断するということを学ぶことができましたが、やっぱり自分は現場で汗をかく方が性に合っていると思ったのと、前向きにリセットしたかったのでテレマーケティング会社で一オペレーターとして金融商品(保険)を取り扱う仕事を始めました。これも詳しくは実績をご覧いただくとして、ここで痛感したのは「保険という難しい商品でも、お客様に契約してもらうために絶対的に必要なものは知識ではない。お客様に信頼してもらうこと。そして契約したらお客様にとってメリットがある。」ということを認識してもらうために何ができるのかということでした。

その後、外資系損害保険会社に移ります。これはオペレーターとしてやっていた仕事の上流部分にあたります。これも詳しくは実績をご覧ください。外資系らしく、最少人数で最大効果を上げるという「効率性」を常に求められました。ただやっているのは人間なので、「効率性」の向上にどうやって人間の想いをリンクさせていくか・・・、これが在籍中にもっとも心を砕いた部分であり、かつ試行錯誤の末に学んだところでもあります。ここがリンクすることが、結果的に「効率」を最大化でき、かつ「収益の総量」を最大化できるというのが私の信念です。その手法について、自分として、その時点での一定の答えが出たと思っています。

そして、2015年夏に大町市に移ってきました。28歳頃から山に登るようになり、東京勤務時代には夏はほぼ毎週末に車を飛ばして北アルプスに通っていました。その中で、落ちついて住むなら山の中がいいなーと思うようになり、でも田舎過ぎて不便すぎるのもイヤだしー、というワガママなことを考えた結果、スーパー・ホームセンター・ドラッグストアなどの基本的なお店があって車があれば15分くらいでどこにでも行けてしまう大町市に移ることにしました。妻が私と結婚前に5年ほど大町市に住んでいて、結婚後も妻は大町市の居心地の良さを忘れられず、そして私もそれに感化されたという流れです。

移ってきて仕事をどうしようか?と思った時に、「自分のような経歴の人間がそれをリセットするのはもったいない」という考えでいたときに、LODEC Japan合同会社に出会いました。約1年間、役員として在籍後にスピンオフ的な形で独立を決意し、今に至ります。

<価値観とか>
価値観を形成してきたできごとを綴る中でご理解いただけた部分が多いのではないかと思います。いろんなことが自分の周りで起きて、その都度、自分のできることを精一杯やった結果として大きなことを成し遂げてきたと思っています。何かを成し遂げるためには、やると決めたことを一生懸命やること、一生懸命やりながらも常にやっていることを振り返って見直すこと、が大事なことだと思っています。でもこれはすごく疲れるので、オンオフの切替は厳格にする! そしてせっかくやるなら楽しい方が長く続けられる、というのが信念です。

<趣味とか>
高校までは完全な帰宅部で自ら進んで運動をしたことは無し。大学のときはサッカーサークルに所属して運動好きになったけども、さほど練習はせず・・・(笑)。という人間でしたが、28歳ごろから山登りが趣味になり、そのうち山を走るようになり、今では(一社)日本スカイランニング協会に所属し、山を走ることにすっかりはまっています。協会員の中では鈍足ですが、普通の人と比べれば山を登る体力はある方だと思います。これも価値観につながりますが、その気になれば何でもできるようになる、といういい例だなと思っています。山を走るトレーニングの一環でマラソン大会にも出ますが、大学までは1キロすら満足に走れなかったのに今ではどんなにひどい状態でもフルマラソンを完走するくらいの体力はあります。最近は短い距離に専門化しつつありますが、山の中を100km走る(いや歩く(笑))レースに出ることもあります。大袈裟な言い方をすると、私にとっては、趣味=価値観の体現という側面があります。

◆スカイランニング協会で行った合宿動画(最後に私が少し話をしています)◆

特に趣味だと仕事と違ってイヤだったらやる必要は全くないので(笑)、いかに楽しんでより大きなことを成し遂げるかというのがキーです。これからも、楽しみながらいろんなことができるようになったらいいなと思っています。子供のときに運動嫌いだったが故に見えなかったことがたくさんあるはずで、だからこそ私にとって拡がりは無限大だと思っています。

<最後に・・・、一緒にお仕事をしてくださる方々へ>
当社(私)を選んでいただいてありがとうございます。いろんなご縁がある中で、お互いに貴重な「時間」を共有し更なる発展を目指すメンバーの一員になれたことが嬉しいです。仕事でも趣味でもそれ以外のことでも、せっかくやるなら楽しくできたほうがいいと思っています。私は、お互いに楽しんでお仕事を続けていける気遣いができる人間でありたいと思っています。お仕事である以上、厳しい局面も多々あると思いますが「楽しむ気持ち(勇気)」を忘れずに・・・、ということで、よろしくお願いいたします。

 

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